「彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。」 民数記 16章48節
一部の人たちが、アロンの一族が大祭司の職務を独占していることを嫉んで批判します。
まるでそれが民全体の意見のように語り、公平性を訴える形を取りながら自分たちの私欲を要求するのです。
主は、彼らをさばかれます。
しかし、主の直接のさばきを目撃し経験してもなお、悔い改めない人たちがいたのです。
主は、さらなる罰を与えて、その人たちを打ちます。
そのとき、アロンが取りなすのです。
主の罰の中へ飛び込み、死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったのです。
それはとりなしの行為であり、同胞の罪を自分の身をささげて覆う行為です。
アロンが立ったときに、主の罰は終わりました。
自分の命を犠牲にして取りなす人があるとき、主のあわれみは発せられるのです。
それは十字架のイエス様の身代わりの死に繋がるものでしょう。
このとき、アロンは死にませんでした。主の守りがあったのです。
それでもアロンは、自分を批判し攻撃して、主のさばきを経験しても悔い改めない人のために取りなしたのです。尊い取りなしです。
私たちの祈りは、主と人との間に立って、取りなしの祈りができるときに、本当の祈りとなっていくのです。
主は、取りなす人を待っておられます。
取りなしの祈り手となっていきましょう。
シャローム