「ルベン族とガド族はその祭壇に「これは私たちの間での、主が神であることの証しだ」と言って名をつけた。」ヨシュア記 22章34節 (2017新改訳)

戦いが終わり、割り当て地が決まったので、ルベン族とガド族とマナセの半部族は、ヨルダン川の向こう側へと帰って行きます。
約束を果たしたのです。
しかし、そのとき彼らが立派な祭壇を築いたので、他の部族は、彼らが主なる神を捨てて、川の向こう側で反逆の生活を始めたと言って。彼らを討とうとしました。
それに対して、彼らは主に従い通すことを証しをして、子孫にも伝えるための証しの祭壇であって、自分たちが勝手ないけにえをささげるためのものではないと、弁明します。
そのことばに他の部族も納得をしました。そして戦いは避けられたのです。

民数記32章を読むと、ヨルダン川を渡らないで、カナンの地の向こう側で、多くの家畜を飼いたいと、その地が適しているので、残りたいと願い出たのも、ルベン族とガド族でした。
しかし、戦いは他の部族とともに戦うと約束したのです。
あの日も、マナセの半部族は、ルベン族、ガド族と一緒になって行動しているだけでした。ここでも二つの部族が中心になって行動しています。
そして彼らは証しのための祭壇を築いたのです。

主のことばに従って生きることを、証しをするのにも独りよがりではいけないのだと、思いました。
他の人の目には、どう見えるのか。
他のひとの耳には、どのように聞こえるのか。
それを良く考え、想像して、証しをしなければいけないのです。
私たちは、同じ神、主を信じていても、互いは欠けのある弱い存在なのです。
愛と配慮をもって行動し、証しをしなければいけないと思うのです。

しかし同時に、信仰を隠してしまっては意味がありません。
大胆に(ここではひときわ大きな祭壇の建設)積極的に証しをして、同時に配慮(良く語り合い、争いを避け)して、証しの日々を送りたいものです。
シャローム