「これがダン部族の諸氏族の相続地であり、その町々とそれらの村々である。」ヨシュア記 19章48節 (2017新改訳)
割り当て地の記述の最後はダン部族です。
続く49,51節には、イスラエルは全ての部族への割り当て地を終えたことが記されます。
そしてそれは天幕の入り口、即ち、主の前に一族かしらたちが全員が揃って正しく行われたことを記します。
しかし、士師記1章34,35節と18章を読むと、ダン部族は、完全にこれらの割り当て地を占領できなかったことが分かります。
その結果、士師記の時代になると、ダン部族には様々な問題が起きているようです。
ここだけでは、ダン部族が主のことばに徹底的に従えなかったのかどうかは、知ることができません。
しかし割り当て地を終えたことが記され、それも主の前に終えたと強調されたのです。
そして20章に入れば、逃れの町について定めて行きます。
ですから19章で相続地は決まったのであり、占領は終わっているのです。
そのように記されていながら、士師記には、反対のことが記されます。
ここにダン部族、信仰者の待つ弱さを見てしまいます。
他の部族がすべて占領を終えた時、ダン部族はまだ、占領できていないと、告白できなかったのではないでしょうか。
しかしそれもやがて明らかにされます。
再度、戦いに挑まなければ名なりませんし、土地も移動して行くことになります。
この時に、できないことを告白し、主の助けを明らかにして祈り求める。
「ダン部族だけは、まだ、戦いの最中であった」と、そう記されても「祈り求めているのである」と、記されることが正しいと感じました。
私たちには、完全な信仰と、その実践ができない時があります。
その時、他の人と比べるのではなく、51節にあるとおり、主の前で、不足、欠けを告白して、主に祈り求め、助けを求め続ける姿勢が大切なのだと、思いました。
ダン部族の名前はやがて消えて行くのです。
そうならないためには、弱さを明らかにして、主の助けを祈り求め続けていることこそを、記されたいと思います。
ダン部族は、私は、主の助けを求め続けて、主の相続地を望んでいるのであると、そう祈りたい。
シャローム