「「ああ、アッシリア、わたしの怒りのむち。 わたしの憤りの杖は彼らの手にある。」イザヤ書 10章5節
神を敬わない国と表現される北イスラエル、そして、激しく怒る民と表現される南ユダ。6節。
この両国を、神はさばかれます。神が打たれるのです。
その時、神が用いられるのがアッシリア帝国です。
神は、アッシリアを神の怒りのむち、そして、憤りの杖として用いられます。
怒りのむちと憤りの杖は、神のさばきを示します。同時に神の愛も示されています。
しかし、怒りのむちと憤りの杖として神に用いられるアッシリアは、自分たちが神にそのように用いられているとは、まったく自覚していません。
ただ彼らは、自分の力を誇り、周辺の国を滅ぼすことだけを望んでいるのです。
欲望のままに動く罪深いアッシリアなのです。7節。
神さまは、こんな恐ろしい国をも、愛する北イスラエルと南ユダの罪をさばくために用いられるのです。
神さまの力と主権は全地に及んでいるからです。
神の愛は、このような形でさばきをおこなうほどに深いのです。
もちろん、20〜27節には、悔い改めることのないアッシリアもまた、さばかれることが預言されています。
そして、21節には、そのさばきの中で、信仰を守り通した「残りの者」が、回復され恵みを注がれることが示されてます。
さばきの中にも神の愛が示されているのです。
神のさばきがあるところには、神の愛が隠されており、神の全能で全治であることが示されているのです。
私たちは、神のさばきを恐れるのではなく、全能で全治の神さまに深く際されているのだということを受け取っていきたい。
神の愛を知っているならば、残りの者のように歩むべき道が決まってきます。
シャローム