「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」士師記 17章6節 (2017新改訳)
さばきつかさは、サムソンで12人のすべての人が登場しました。
さばきつかさの活躍を記すならば、17章以降は必要がありません。サムソンも死んで葬られたのですから。
しかし、この時代のイスラエル人が、どれほど罪深いのかを聖書は隠すことなく暴きます。
王がないとありますが、それは他国のような人の王がいないだけです。
王の王である主が初めから存在しておられます。
しかしこの頃のイスラエル人は、まるでその王の王である主が、いないように振る舞っているということです。
そこにはルールも、秩序もありません。
自由なのではなく、混とんなのです。
彼らの罪を、このことばは指摘するのです。
それぞれが、自分の目に良いと見えることを行っています。
そこには愛と義はありません。
自分の欲望のままに、それぞれが生きていると言うことです。
サムソンの怒りがペリシテ人の怒りを呼び起こし、それが繰り返されました。
ここでは一人一人の欲望が、別の人の欲望を引き起こして、主がいないような日々を送っているのだと、教えてくれる6節です。
自分の目は確かではありません。
ですから、間違いのない方の目を求めましょう。
主の目の前に生きる。恥ずかしくないように生きる。
主の目を見るようにして歩む。主の目から隠れないで生きる。
それが良いことへと繋がっていくのです。
見えないけれど、今も、私には王の王がいてくださるのです。
シャローム