「その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしててそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。」 民数記 15章39節

食物のささげもの、赦しのためのささげものの規定が記されます。
規定が続く15章のようですが、主の愛と赦しがあります。
31節に「必ず断ち切られ、その咎を負う」と、厳しいさばきのことばがあるので、旧約の神の厳しさ、怒りの神の姿を思ってしまいます。
イエス様が赦しと愛を語ってくださったことと比較してしまいそうになる私たちです。

そうではありません。
偵察に行った者たちの罪、同じように呟いた民の罪の結果、14章では、約束の地には入れず、荒野で死ぬと宣言されている民でした。
しかし、15章では1節から、約束の地での収穫の恵みを感謝して献げるささげものの規定が語られるのです。
それは次世代の子らは、間違いなく約束の地に入り、豊かな収穫を得ることができると、示されているのです。
さばきが語られるときには、その先に赦しと祝福の姿が示されているのです。

必ず断ち切られるのは、故意に罪を犯す者へのさばきです。
それは主に乞いに背く者のことです。

主の聖さ、人の罪。主の赦しと人の背き。
そのことが語られた上で、主は衣服の房について命じます。
着物の裾の部分に房をつけるのです。
歩くたび、動くたびに房は動き、邪魔になります。だから目に入ります。
目に入ることで、いつも自分の罪と主の赦しと祝福のことばを思い起こすのです。
主の命令、主の愛を毎日思い起こすための房です。

しかし、後の時代になると、パリサイ人はこの房をことさらに大きく豪華な装飾へと変えて、町の人々に自分を誇るための房にしてしまいました。
その行為自体が罪であることがわからないのです。
このように、主の赦しと愛が語られた後に命じられた房をつけることさえ人は罪に変えてしまう、愚かさを持っているのです。
さまよい歩くなと、命じられている房をそのまま反対の意味の道具に変えてしまうのが私です。

私の心の目に、正しい意味の房をつけて目を留めていける者でいたいものです。

シャローム