「マナセはエフライムを、 エフライムはマナセを、 そして彼らはともにユダを敵とする。 それでも御怒りは収まらず、 なおも御手は伸ばされている。」イザヤ書 9章21節

9章2〜5節は、メシヤの預言が記されることで有名なことばがあります。
この時代においては、この後の南ユダの捕囚、そこからの解放という形でそれが成就しますが、それは一部のことです。
究極的にはイエスさまの誕生によってメシヤの到来が実現します。

6節からは、この時代の北イスラエルへの神さまのさばきのことばが続きます。
しかし、北イスラエルは、10節では神さまのことばに逆らうのです。
もし、神さまのさばきで倒されても、さらに強い切り石で自分たちの手で建て直そうと答えます。
神のさばきを受けても、一向に悔い改めることがありません。

さばきは民の重ねる詰みに対する御怒りなのです。
12節、17節、そして9章の最後の21節で「それでも御怒りは収まらず、 なおも御手は伸ばされている。」と、同じ言葉が繰り返されます。
21節は他国から攻められた北イスラエルが、今度は南ユダを襲う様子が記されます。
それほど罪は深いのです。
そして悔い改めない北イスラエルに神の御怒りは収まりません。
神のさばき、御怒りを軽く考えてはいけないのです。
悔い改める機会は与えられています。それを逃してはいけないのです。

しかし、ここに「なおも御手は伸ばされている。」と、あることに希望を見出します。
御手が伸ばされているとは、自分の手で国を、城壁を建て直すのだと逆らっても、神の御手は伸ばされています。
さばきは去ることはありません。悔い改めるその時まで、神のさばきはあるのです。
それでも同時に、神が去ってしまうのではなく、神の御手は伸ばされているのですから、見捨てられ打ち捨てられるのではなく、赦しと解放の時はあるのです。
絶望の中にこそ、神の希望があります。
それこそが1節の「苦しみのあったところに闇がなくなる」と言う、約束の言葉に繋がるのです。

さばきがある。御怒りがあることは、神に見捨てられず、まだ愛されていることです。
御手がいつも伸ばされていることを、神さまの愛と恵みであると受け止めていきたい。
祈りと悔い改めを神への応答として生活したいものです。
シャローム