「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」 ピリピ人への手紙 3章7節(2107訳)
水曜日です。聖書66巻から1つの書を選び、その書を紹介しながら「みことば」を味わっていきます。
66巻をゆっくり読み進めながら、聖書に記された神様の愛について味わっていきます。
今日開いたのは、ピリピ人への手紙のです。
パウロがローマで投獄されている時に書かれましたが、獄中にも関わらず、不安や不満ではなく感謝の言葉があることにイエス様を信じた者のあるべき姿を見ることができます。
「使徒の働き」16章でパウロが紫布の商人リディア(ルデヤ)に福音を伝えてたことで生まれたのがピリピの教会です。
ピリピの教会は、パウロの宣教をずっと祈りと献金で支えました。
投獄されたパウロのところへエパフロディトを送り、パウロを助けます。
しかし彼が病気となり、回復後にピリピへ送り返すときに、この手紙を託しました。
それ故、獄中からの手紙ですが、パウロ自身の不足や不安を訴えるのではなく、ピリピの教会への感謝と教会で起きつつある問題に対する心配が記されています。
教会に起きつつある信仰社同士の不一致への心配を、主イエスにあっての一致、信仰への同じ思いを持って対処するように語ります。
しかしこの手紙は「愛の手紙」であると思います。
パウロが弟子たちを教え、叱責するのではなく、愛して心配して、彼らへの感謝と共に語りかけています。
それはパウロが、イエス様を信じた結果、大きく変えられたということから来ている思いです。
ここ3章の前半には、パウロが信じる前と信じた後の心情の変化が記されます。
「得と思っていたことを、損と思うように変わった」と、あります。
以前は、選民イスラエル人として生まれたことと、その家系を誇りました。喜んでいました。
ユダヤの律法を専門に学び、修めたことを誇りました。
誰よりも厳格に律法を守って生きていたことを誇りました。
しかし、そのようなもののすべては損に思うようになったのです。すべてです。
それは十字架の上で、自分のために罪のない血を流してくださったキリスト・イエスの愛を知ったからです。
信じることの価値が、行いの価値に決定的に勝っていると信じたからです。
キリストを信じることよって得られる義と恵みの素晴らしさを、パウロは語り続けます。
感謝と喜びと共に語り続け、味わいます。
その喜びと平安は、投獄とその先に殉教の死が待ち受けていても失われないのです。
以前の私は過ぎ去り、新しくなりました。イエス様を信じた私の心と生き方はこのように、以前とは決定的に違っているのです。
私はローマの牢獄に繋がれることはないでしょうが、日々の生活や仕事で悩み苦しむことがあっても、そこに囚われてしまい喜びや感謝の心が失われることはないのです。
シャローム