「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」コロサイ人への手紙 2章6節 (2017新改訳)
自分の罪を悔い改めて、イエスを救い主と信じたのが、私たちです。ここで言う「あなたがた」です。
その私たちは、イエスを信じて終わりではありません。
信じた者としての生き方が、その瞬間から始まっています。
それは続く15節では「キリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされた」人ということになります。
凱旋の行列の捕虜とは、戦いに敗けた敗戦国の捕虜が、勝利者である将軍(ここではキリスト・イエス)の後ろに並んで歩く人です。
敗戦の捕虜は、かつての国の地位も名誉も、力もそのすべてを破棄して、将軍に敗けたことを認めて、将軍の後ろに続くのです。
この後は、将軍の命令のままに働くしもべとなったのです。
私たちは今、罪の国の住人から移されて、キリストの後ろに続く信仰者となりました。
私が歩いている隊列は、完全に変わったのです。
さらされていますとは、明確に罪の子から神の子へと、完全に移されたことが証しされていると言うことです。
かつて誇った力や教えは、すべてチリとなりました。
新しくキリストのしもべとしての生き方が用意されています。
それなのに、ここコロサイでは、かつての祭儀や御使いへの信仰、禁欲主義が入り込んでしまったのです。これはすべて間違いです。
私たちは、キリストの後ろを歩いているキリストのしもべのはずです。
イエスを受け入れて、キリストにあって歩んでいるはずです。
それは信仰によって生きることです。
幼稚なこの世の禁欲主義や様々な教え、祭儀に惑わされてはいけないのです。
信じて従うだけ。これが私たちには結構難しいことなのです。
キリストを愛し、隣人を愛する生き方は、イエス様が模範を示してくださったはずです。
前を歩いておられるのです。
かつてのモノ、目新しい教え、行いといったモノは手放したはずです。
ただ、ただキリストに倣い、イエス様のことばを信じて従うのみです。
信仰は「信じました」と口にして終わりではなく、信じた通りに信仰に生きることです。
わたしの前を、勝利者であるイエス様が歩いておられます。
私は「しもべは聞いております」「しもべはイエス間に従います」と、素直に信仰に生きることを、今日も実践したい。
シャローム
シティリジョイスチャーチ 榊原康成
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