「ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。~」コロサイ人への手紙 1章23節、前半 (2017新改訳)

今日から、コロサイ人への手紙を読みます。
コロサイの教会は、パウロの宣教の働きの結果、生まれた教会ですが、パウロ自身はコロサイには訪問しておらず、エパフラスがパウロによって遣わされて、その基礎を築いたものと、考えられます。
そしてピレモンの手紙のピレモントとは、コロサイの教会の重要なメンバーであり、パウロの教えを受けた人です。
コロサイの教会にはこの時、ユダヤ的な律法、儀式を守ることを教える間違った教えと、ギリシャ的な禁欲主義などが入り込んでいました。
パウロはそれらの間違った教えに対して注意するように手紙を書きました。

この手紙の中心は、キリストこそが知識と知恵の源であり、真の仲保者であり、真の神であることを教えます。

イエス・キリストが、私の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったので、私の罪は神の御前にすべて精算されて、イエス・キリストを救い主と信じるだけで、私は救われて神の子どもとされました。
そして滅びから移されて、永遠のいのちをいただきました。
信じるだけ。
信じ続けるだけです。

しかし私たちは、この1点を守ることができない者なのです。
それなので、律法を守ったりすることで、自分の正しさを証明しようとしたりします。
また、禁欲的な生活をすることで、きよく正しい生活をして、立派な信仰者になろうとしたりもします。
行いを加えてしまうのです。

見えなければ、教会に満ち満ちておられる主イエスの愛の業だけを信じることが苦手なのです。
しかし私たちの立派な行いなど、神の前にちりあくたです。
自分の正しさやきよさを手放して、私のために死んでくださったイエス様の愛を信じ続けること、イエス様の福音から外れず、信じ続けること。
それが私に必要なことです。

そのためにも、私たちは招かれた主の日の礼拝に集い、一つ心となって主に礼拝をささげることから、新しい一週間を始めます。
主の恵みを確信し、信仰を点検し整えて、新しく歩むのです。
行いではなく、信仰に生きるのです。
シャローム