「私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分がバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」 民数記 13章33節
イスラエル人が、旅の目的地であり定住すべきカナンの地を初めて偵察した様子が記されます。
各部族から族長が遣わされ、二人づつが偵察に行きます。
カナンの地は豊かで、果物も抱負に実っていました。
ヨシュアとカレブの一組だけが勝利を確信した報告をしたのです。
しかし、残りの10人はそこに住み人たちが背が高く強くて、町の強固なので、攻め上れないと報告をします。
そしてこの33節のことばを続けて報告をします。
自分たちがバッタのように小さく弱い存在に見えた。
相手にも、自分たちのことはそう見えただろう。
10人の報告は自分の目で比較したことと、相手がどう見ているだろうと言う視点です。
卑屈であるとか、消極的であると言うことではありません。
主の目はどう見ておられるのかということが完全に抜け落ちています。
カナンの地は、約束の地です。
主が与えると約束を結んでくださった地です。
主の約束を通して見ていません。
ですから、10人は希望を持って報告をしません。
信仰の目を通して見ることができないのです。
そこにある見えないものを信仰の目で見たいと願って見なければ、主の約束は実現しないのです。
何をどう見るのかは、主のことばを日々、どのように聞いているかということに繋がっています。
信仰の目と耳を研ぎたいものです。希望を持って。
シャローム