「もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」ローマ人への手紙 11章21節
11章は神に恵みによって選ばれたイスラエル人とその恵みが広げられた異邦人とを比較して語っています。
パウロは、自分が異邦人に福音を伝える使命を自覚しています。
しかし、もはやイスラエル人が神に見捨てられたとは考えていません。
異邦人が救われて祝福されていくことでイスラエル人がねたみを覚えて、福音をもう一度信じると考えています。
それなのでパウロは異邦人への宣教に力を注ぐのです。
そして神様は、異邦人はもちろんのことイスラエル人を愛しておられます。
ここに「本来の枝」とあります。このことばは「自然に生えた枝」とも言い換えられます。
それはイスラエル人のことです。
神様が最初に選び、恵みを注いで救いを与えた民のことです。
そして異邦人は、その自然に生えた枝に接ぎ木をされたものです。
接ぎ木された先に救いが結実します。
しかし接ぎ木したからと言って、本来の枝を神様は捨てたのではありません。
接ぎ木によって結実しますが、本来の枝、根がなければ接ぎ木には意味がありません。
結実しないのです。
神様は本来の枝であるイスラエル人も惜しんでおられるので、救われるように待っていてくださる。
そして恵みによって広がった異邦人のことも惜しまれるので、救われることを待っていてくださる。
すべては神様の恵みに始まり、惜しまれることで救いが広がり、私に届いたのです。
神様の恵みによって救いを与えられ、惜しまれることで今の私がいます。
先に救われた人も、今の私も、この後に救われる人も、すべて神様の恵みから始まり恵みによって完成します。
愛は惜しみなく注がれてこそ愛なのです。
シャローム