「イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」」 ルカの福音書 18章27節

イエスさまがこのように語られた直前には、指導者(律法の指導者、町の有力者だと思われる人)が、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができますかと、尋ねています。
イエスさまの答えは、彼に欠けているものがあり、彼の持つ財産をすべて売り払って、貧しい人たちに分けてやるようにとのことでした。
彼は、それができなくて、悲しんでその場から去って行きました。
イエスさまは、富を持つ者が、神の国にはいることはなんと難しいことかと、語られた後で、この27節の答えを弟子たちに示したのです。

神からいただる恵み、祝福を自分の力や行ないで得ようとしたこの指導者は受け取ることができませんでした。

ここで教えられるのは、まず初めに創造主である神とその神に造られた被造物である人との決定的な違いを認めて、神を信じることです。
そして神は全能です。できないこと、不可能なことはありません。
無から有を生み出すことができる存在なのです。

そして、永遠のいのちは、自分で得るものではなく、神から恵みとして与えられるものです。
律法を守ることは正しいのです。良いことです。
律法が与えられていることが既に恵みが与えられていることなのです。
しかし、律法を完全に守ることは人にはできませんし、律法を守った報酬、結果として得るのではないのです。
恵みとして受け取るものです。

また、神にはできると言うことは、神が与えたいと思う者に与えることができるということです。
それはあわれみ深く、大きな愛の神が、罪人の中からを選び出し、優れた人ではなく、小さく弱い人を敢えて選んでくださるということです。
ですから、自分を誇る人は、自分であることができる、自分こそは受け取れると考える時点で「なんと難しいことでしょう」と、イエスさまを悲しませてしまうのです。

私にはできないからこそ、神さまによって与えられるのです。
自分を誇る者ではなく、できないと認め、それでも諦めて去っていくのではなく、あわれんでくださいと祈る人。
また、幼子のように素直に受け取れることを疑わずに手を伸ばして、イエスさまの近くに来る者。
この人が与えられていくのです。

人(私)のできることの延長に、神のできることがあるのではないのです。
人にはできないこと。それが神にはできるのです。
与えることができるのは、神さまだけです。
シャローム