「陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利をもっていないのでしょうか。」ローマ人への手紙 9章21節

9章は分かりにくいというのが、私の素直な感想です。
「神はみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです」と18節にあります。
この節に代表されるように、神様が人を頑なにされたから、エジプトの王ファラオは、最後まで神に逆らい、イスラエル人を苦しめたのだろうか、それでは神様が悪いのかと、問いたくなるからです。
もちろん、すぐ19節に、その考えが間違っていることを指摘して教えてくれるのですが、そう思ってしまいます。
それなので分かりにくいと思ったのです。

しかし、22節には、滅ぼされるべきはずの私のことを、神様は豊かな寛容をもって耐え忍ばれたのだと教えられます。
何よりも死刑執行を猶予されている身であるはずの私を救うために神様は御子を死に渡されたのですから、神様の愛と寛容は、私の想像を遥かに超えています。

神様は人の心を操り、支配して頑なにするのではないのです。
むしろ頑なな人の心さえも神様は大切に忍耐して見守ってくださる方です。

このようなことを考えてしまい迷う私は、根本的なことが抜けているのだと思います。
真の神様は、創造主であること。
私と、この世界のすべてを造られた方。そして、今も支えておられる方。
そして、私は造られた存在、被造物なのだということ。
ここに全てがあり、始まりがあります

陶器師と器です。
この陶器師はあわれみ深く、愛に豊かで、忍耐の方。
対して、私は争いやすく、憎むことがあり、耐え忍ぶことの苦手な者です。

愛のある創造主にことばをもって造られた被造物である私。
もう一度、そのことを覚えておきたい。

シャローム