「これからは、だれも私を煩らわせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。」 ガラテヤ人への手紙 6章17節
ガラテヤの手紙の最後の言葉です。
イエスの焼き印こそが、パウロと同じように私たちが誇るべきものです。
ここまで忠告をしてきたのは、ユダヤ主義に対する警戒です。
割礼を受けることや、律法を守るようにすすめるのは、自分を良く見せたいという思いからからです。
自分を誇りたいのです。
しかし、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じた人は、新しく造られた人です。
その人はイエス様だけを誇るべきなのです。
パウロが、口述筆記をやめて自筆で書き記したこの6章の終わりの部分は、どうしても知って欲しいことだからです。
迫害されるのを避けるために割礼を受けたり、律法を守っているように振る舞うことは止めるべきでした。
パウロは、もちろん生粋のユダヤ人ですから割礼を受けており、幼い頃から律法を誰よりも厳格に守って来た人です。
しかし、そんなものはちりあくただと、パウロは言い切ります。
パウロが誇るのは「イエスの焼き印」です。
それは迫害された時に、その身に受けた傷跡です。
割礼の跡なんかじゃないのです。
キリストを信じ、イエス様を愛して、従う時に私たちは迫害をされ、イエス様と同じような苦しみ(そのほんの一端)を受けるのです。
そして傷を受けます。
それこそがイエス様を愛し、その生き方に倣い、みことばに従順に従っている証しです。
皆がそのはずなのです。
だから、自分を誇らず、自分の身にあるイエスの焼き印をいつも覚えておきましょう。
その人には、主イエス・キリストの恵みがあるのです。
シャローム