「しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、」テトスへの手紙 3章4節

キリストを信じる前の私たちは、3節に記されるとおりの罪を持った者でした。
その行いは、快楽を追求し、互いに憎しみ合うような存在だったのです。
否定したい思いもありますが、否定できないことだと認めることが、私たちの内に残った良心の欠片です。
しかし、そのような者でも正しいことを行おうと思い、義を得たいと格闘することもあります。
それでも、自分の行いでは、義を自分のものにすることはできません。ましてや、神に認められる義など、自分で得ることなどできません。

しかし、神はそんな私たちを滅ぼすのではなく、罪から救い出したいと思ってくださったのです。
ここに「いつくしみ」と「愛」とありますが、いつくしみと愛がどう違うのか、何を指すのかが問題ではないのです。
神さまの一方的な大きな愛を示すために、言葉を変え、重ねて表現しているのです。
神さまの大きな愛が現れるとは、神が人となって地上に生まれてくださったことです。
それも私たちの罪の結果の死を身代わりになって受けるために人となってくださったということ。

現れるとは、単に見えるようになるとかではありません。
実態と実践をともなう形になったということです。
見えない愛が、人となった神の生き方に現れて見えるようになり、受け止めることができたということです。

救い主のいつくしみと愛は受け取るものです。私が受け取るべき愛です。
受け取ったときに、私は新しく造り変えられるのです。

シャローム