「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。」 ガラテヤ人への手紙 5章6節

 「ユダヤ主義」と、この時代のガラテヤの信仰者を惑わし迷わせたのは、そのような考えをキリスト・イエスを信じる信仰よりも上にして、守らせようとする人たちでした。
 具体的には旧約聖書の時代からあった「割礼」を受けることで、ユダヤ人となったと見なして、選民の仲間入りを果たし、神の救いに与るというものです。
 イエス様を、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださる唯一人の救い主であると、信じた人にどうして割礼が必要でしょうか。
 それはイエス様がこの地上に来てくださる以前に、人々が守るために与えられていた律法の一部です。
 しかし、その一部にせよ、信じた後で守ろうと言うのであれば、他のすべても守らなければならないのです。
 そんなことはできません。
 そんなことをして救いを得ることは不可能なのです。
 ですから御子が地上に来てくださり、贖いによる救いを完成してくださったのです。ですからそれを信じるだけです。

 もし、割礼を受けるなど、おこないを通して自分の正しさを誇ろうと言うならば、キリストを否定することになります。
 そんな私たちのためにイエス様は十字架で死んでくださったはずです。

 信じた私たちがすべきことは、愛によって働く信仰に歩むのみです。
 行いではなく信仰。
 自分の業を通して正しくあろうとするのではなく、キリストに愛されている者として歩むことで罪が赦されていることを証しするのみです。
 信仰によって、愛の業を恐れることなく続けるのです。割礼を受ける受けないは関係がなく、キリストを愛するかどうかが問われます。
 行いではなく信仰。
 行いではなく愛。
 キリストへの愛です。

 キリスト・イエスに愛されている者であることを深く味わいつつ、歩みましょう。
シャローム