「イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救助者を起こして、彼らを救われた。それはカレブの同族ケナズの子オテニエルである。」士師記 3章9節 (2017新改訳)

ヨシュアの死後、あっという間にイスラエルの子らは、主を捨てて偶像の神々に仕えるようになります。
主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、彼らはアラム・ナハライムの王に仕えることになります。
主を捨てて、主の目に悪を行ったイスラエルの子らですが、苦しみの中でようやく主に叫び求めます。
助けの声を上げたとき、主はあわれみ深く、イスラエルの子らに御手を伸します。

最初のさばきつかさが、主によって立てられるのです。
その名はオテニエル。あのカレブの同族の人です。
彼は「救助者」と、呼ばれます。
「さばきつかさ」として紹介されないのは、彼がイスラエルを苦しめる者たちと戦って、イスラエルを救い出したことを強調しているのでしょう。
しかしオテニエルが死ぬと直ぐにイスラエルの子らは、再び、主の目に悪であることを行うようになります。
オテニエルは、イスラエルを苦しめる者たちからは救助しましたが、主の前に正しく歩めるように民を導くことはできなかったのです。
そして、この主を捨てて偶像をあがめ、地上の豊かさだけを求めては失敗して苦しみ、その後にようやく主を叫び求めるが、助かるとまた、直ぐに主を捨てると言うことを、士師記の時代のイスラエルは繰り返すことになるのです。

残念ながらオテニエルは、真の救助者にはなれなかったのです。
それ以上に、イスラエルの子らの、主への叫び求めは、真の叫び、心からの悔い改めをともなった叫びではなかったのです。
主は、それでも民をあわれみ救ってくださるのです。

あわれみ深く忍耐強い主の前に、私たちはどう歩むべきなのか。
答えは明確ですが、それを実践できないイスラエルの子らがいます。私たち信仰者の弱さもそこに現れます。

主は、何度でもイスラエルの子らを救い。
イスラエルの子らは、何度も何度も主を裏切り捨てるのです。
私はどうだろう。真に主に叫び求めているだろうか。
主の助けを受け取り喜び感謝しているだろうか。
シャローム