「主は言われた。「あなたは当然であるかのように怒るのか。」」ヨナ書 4章4節 (2017新改訳)
 

聖書66巻から1つの書を選び、その書を紹介しながら「みことば」を味わっていきます。
66巻をゆっくり読み進めながら、聖書に記された神様の愛について味わっていきます。
 今日開いたのは、ヨナ書です。
 
 大きな魚に飲み込まれた人が三日三晩、魚の腹の中にいて、その後、陸地に吐き出されます。
 そしてニネベの町で、主のことばを伝えるのです。
 その人がヨナ。
 この大きな魚のお話で有名なヨナ書です。しかし比喩的なお話しではなく、事実なのです。
 
 ヨナ書は預言書ですが、主のことばを預かり、それを伝える預言書と言うよりは、ヨナの行動が記されていくことで伝えられていく預言書です。
 それも行動預言者のホセアのように、その生活が預言となって行くのとは違っています。
 生き生きとしたヨナの生活が記され、その中で、ヨナが主とニネベの人たちの前でどう行動したかが記されます。
 ヨナの語った主からの「ことば」は少なく、語る者、聞く者の姿が記されます。
 
 本書は、始まりから変わっています。
 ヨナは、主の召しを受けて逃げます。
 しかし主のことばに捕らえられて、祈り、活動を始めます。
 ニネベの町へのさばきのことばを伝えます。
 ニネベの王を初め人々が、悔い改めたので、主はさばきを行われませんでした。
 執行猶予と言う感じです。その後、結局ニネベの町、アッシリア帝国はさばかれます。それは少し後になってから。
 主が、ニネベの町と人を、あわれまれたので、ヨナの語ったことばは外れたことになります。
 
 選びましたことばは、そんな出来事の終わりに起きたことです。
 ヨナは、小さな木が枯れたことに怒ります。
 それも自分の手で労して育てた木でもないのにです。
 
 主は、そのヨナの怒りをすくい上げ、当然であるかのように怒るのかと、ヨナに問われます。
 主は、罪人であっても滅ぶことを望まれず、忍耐を持って悔い改めることを待たれます。
 そして赦しを与えます。
 
 主は、義のために怒りを隠しません。
 そして愛のために、さばきを止めて、赦すことを惜しまれません。
 しかし私たちは、自分の感情や行動を正当化して、主に向かっても怒るような愚かさを持っています。
 
 当然であるかのように愛せる人に、赦せる人になりたいものです。
 主に赦されて、愛されていることを味わっているのですから。
シャローム