「エフライムはゲゼルの住民であるカナン人を追い払わなかったので、カナン人はゲゼルで彼らのただ中に住んだ。」士師記 1章29節 (2017新改訳)
今日から、士師記を読みます。
ヨシュアの死後から、預言者サムエルの誕生までの時代を記します。
士師とはさばきつかさ、とも呼ばれるイスラエルに登場する指導者です。
民が選ぶのではなく、主が召し出して遣わします。
信仰と生活、軍事的な指導者とでも言うべき人ですが、王ではありません。
1章は、ヨシュアが死んだ時のカナンの占領の状況を、ヨシュア記とは別の書き方をしています。
端的に言えば、イスラエル人のカナンの占領は、完全ではなかったことが明らかになっています。
ヨシュア記で記されているのは、割り当て地が確定したと言うことでしょう。
しかし実際の土地では、カナン人が残り、聖絶することはできなかったのです。
そしてそのことが、カナンの地とカナン人の異教の偶像崇拝が、イスラエルに入り込む結果となっていくのです。
主が、心配し避けるように命じたことが、残ってしまったのです。
ヨセフ族はマナセ族とエフライム族に分かれました。
分裂ではなく、ヤコブがエジプトで祝福したことばの通りになっていたわけです。
22節から29節は、ヨセフ族の割り当て地の状況です。
ヨセフ族は12部族の中で、最大の広さを受け取っています。これもヤコブのことば通りと言えます。
比べれば、ダン部族などは、34節に短く記されるだけです。それも失敗している様子が分かります。
こうしてみるとヨセフ族は祝福されているのです。
しかし問題は、彼らでさえも主のことばに完全に従い切れていないことです。
「追い払わなかった」とあります。
できなかったと言う面と、主のことばに従い切れなかった、信仰の弱さを見ることができます。
その結果は、追い払えなかったカナン人の問題は「列王記 第1、9章15節〜」に記されるとおり、イスラエルの3代目のソロモン王の時代にまで残るのです。
私たちは完全な信仰を持つ、完全な信仰者になることはできないでしょう。
この占領が不完全なまま終わっていることを見ると分かります。
しかしそれが駄目だというのではなく。
私たちは信仰の弱さを持ったまま、しかし主を愛し、主のことばに従い通したいと求める信仰者であることを覚えておきたい。
この1章には、主が駄目であると言う評価や叱責のことばはありません。
弱さを記録して残し、向き合って、主に期待して主を愛して従うことが教えられているのです。
弱さ、欠けが駄目なのではなく、その自分の持つ弱さと向き合って、主のことばに信頼し続ける信仰の日々を送りたい。
シャローム