「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。」 ガラテヤ人への手紙 3章11節

「愚かな〜愚かなのですか〜」と始まった3章です。
パウロは、ガラテヤの人を愚か者と、馬鹿にしたりしているのではありません。
信仰者が、自分の行いを誇るなと、言いたいのです。行いを誇る人に惑わされるなと言いたいのです。

3節には「御霊によって始まった」とあります。
そして7節、9節で「信仰によって生きる人」とあります。
ここ11節には「義人は信仰によって生きる」と、福音の本質を示すことばがあります。
イエス・キリストを、私の救い主と信じた瞬間に、私たちは罪から救い出されて、神の子どもとされて、新しく生きる道が始まりました。
信仰者の完成は、イエス様の再臨の日です。
それまで、イエス様に倣う日々が続きます。
良い業もすることになりますが、行いによって信仰が完成するのではありません。
律法は、私たちに罪を示してくれますが、罪を赦すことはできません。むしろ罪を強く意識させます。

信じて始まったキリスト者の生き方は、イエス様を信じて従うこと、イエス様の生き方に倣うことで完成へと向います。
しかしそれは行いによって完成するのではなく、信じ続けることで完成へ向うのです。
信仰に生きるときの問題や苦難、悲しみは無駄になることはなく、御霊が充ち満ちて私を励ましてくれます。
どこまでもイエス様を信じる人が義とされて、守られるのです。

良い業、行いは、神港に生きる人に現れて来るものであって、行いがその人を義人にするのではないのです。
信じるとは、信仰によって生きることです。
御霊に生かされることです。
今日も、御霊によって始める一日としましょう。
シャローム