「こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。」ガラテヤ人への手紙 4章31節 (2017新改訳)

ここまでアブラハムの妻サラと、アブラハムのイシュマエルを生んだ女奴隷のハガルとの比較がされてきました。
女奴隷の子どもとは、罪の下に有り、滅びに向かって行く人の姿を示します。罪の奴隷なのです。
かつては私たちは全員この女奴隷の子どもでした。

自由の女の子どもとは、サラの子どもイサクのことであり、アブラハムの遺産を受け継ぐ権利を持った子どもです。
遺産と言っても、羊やしもべのことではありません。
アブラハムが神と結んだ契約を受け継ぐと言う意味です。
自由の子どもは、契約の子どもでもあります。
滅びの子どもではなく、永遠のいのちの約束を持った子どもです。
罪が赦されて解放されたと言う自由を手にした子どもです。

そして自由の子どもかそうではないのかは、血による系図ではなく、信仰の系図です。
イエス・キリストを信じたと言うことで、私たちは全員、間違いなく自由の女の子どもであり、契約を受け継ぐことが許された子どもです。
それはあらゆる分野、領域において自由であり、素晴らしい財産を持っていることなのです。

ところが今、ガラテヤの教会の人々は、その自由を脇に追いやり、律法を守ることを重要にしていました。
それは神の恵みを捨てることです。いつの間にか道を外れてしまうことです。
信仰による義を伝えたパウロの労が無駄になることだと、パウロは嘆き、厳しいことばを語るのです。
何が本当に大切なものであるのかをパウロはサラとハガルの比較から示したのです。
自分たちが自由の女の子どもであり、契約の子どもであると言う恵みを、忘れないようにしたいものです。
一方的な恵みとして与えられたこの福音を信じて、迷い出さないように歩みたい。
シャローム