「しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。」ガラテヤ人への手紙 3章25節 (2017新改訳)

ここでは、モーセの律法を守ることを、養育係に教えられ厳しく指導されている子どもに例えています。
子どもが成人するまで、養育係はその責務を果たすために厳しく教えます。時に罰を与えます。
しかし律法を完全に守ることはできないことを、律法その物が、養育係の働きとして教えます。
私たちは、養育係によって、罪を持っていることを知り、律法を守ることで義を獲得することはできないことを知ります。

しかし罪を知り、罪から離れるべきことを知っていることは意味がありました。
そこに信仰が現れて、即ちイエス・キリストが現れてくださって、律法の行いではなく、イエスを信じる信仰によって義を得ることができると示してくださったからです。
行いでは決して獲得できないことを養育係によって知っていましたから、信仰によって得ることができる恵みを知ることができました。
そしてアブラハムに与えられた契約を受け継ぐのは、養育係によって教えられて得るのではなく、信じて契約の更新者とすることを知りました。

養育係は来たるべき時まで、私たちを守り導いてくれました。
しかし契約を受け取っていくのは、信仰によります。
私たちは養育係の監視の下から離れて、イエス・キリストの恵みの下に来ました。
それは行いから、信仰へと移ったのです。

ですから、今さら、信仰から行いへ戻って、自分の行いを誇るようなことがあってはいけないのです。
そんなことをして、自分の義を主張すれば「ああ、愚かな人よ」と、パウロから手紙を受け取ることになります。
私たちは恵によって、キリスト・イエスの御翼の下にいます。
ただ、ただ信じただけでそれは揺るぎないものとして私のものになりました。
シャローム