「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によってえられるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」 ガラテヤ人への手紙 2章21節

2章はキリスト者パウロの信仰者としての生きる姿勢が良く表れている内容だと思います。
イエス様の愛を証しし、異邦人への宣教に仕えてきた14年を誇りを持ってユダヤ人の同胞に語ります。
ケファことペテロたちと、使徒として、キリストにある同労者として交流を持ったことを語ります。
一方で、先輩とも言うべきケファの姿勢に誤りがあったことを、堂々と指摘するのです。
人に対しては、誰にも臆することがありません。
譲らない、臆さない、弱さを受け止めて、恵みを喜ぶパウロそのものです。

それらはすべて、パウロがイエス様の福音を信じるからこそです。
その中心は十字架の死と、それによって与えられた恵みです。

恵みですから、生粋のユダヤ人であると自分を誇ることだって可能なパウロが、イエス様と出会うまで行なってきた律法の厳守、行いを否定します。
律法を守ること、行いによって、自分が義とされることを福音を信じた後でも、もう一度しようとするならば、それは福音を捨てることです。
恵みを捨て去ってしまうことになります。
それはイエス様の十字架の上の贖いの死を無意味にしてしまうのだと、厳しく語るのです。

恵みは、恵みをとして受け取り、恵みによって生かされている者として、イエス様に倣って生きるのみです。
誇るならばキリストを。
栄光は主イエスに。
すべては恵みを恵みとして、知っているのか、受け取って、恵の中に生かされている者であることを知っているかに尽きるのです。
シャローム