「自分の十字架を負ってわたしについてこない者は、わたしの弟子になることはできません。」 ルカの福音書 14章27節
この頃、既に多くの人がイエスさまのお話を聞く人となっていました。
この群衆は、イエスさまの後をついて歩いていたりしました。
イエスさまが、町や村のあちらこちらで神の国のお話をされる時にいたのです。
よいお話だと感激し、これまでの律法学者たちの語るお話とは違うと、関心を持って聞きます。
そんな群衆が大勢いたのです。
しかし、彼らはそれだけです。
聞くだけ。
聞いたその時だけ、感激して終わりです。
現在の自分の生活から離れて、神の国を求める生き方に移ろうとしません。
罪の生き方を離れ、自分が握りしめていたこの地上の宝を捨てて、神の与えてくださる恵みを求める生き方へ変わろうとしません。
群衆は、いつまでも群衆のままです。
しかし、弟子は、師であるイエスさまに倣って生きることを望みます。
師であるイエスさまの望むものを自分の望むものとして生きることを選びます。
十字架は、処刑の道具、死の場面です。
自分の捨て去り始末しなければならない、これまでの希望を十字架につけて終わらせることを常として、イエスさまに従うのです。
私が変わりたいと望むならば、イエスさまが私を造り変えてくださいます。
しかし、私が望む無ければ、私はいつまでも群衆のままです。
私が十字架につけるべきもの、今まだ握りしめてている物は何でしょうかと、もう一度祈る朝です。
シャローム