「私は主を待ち望む。 ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。 私はこの方に望みを置く。」イザヤ書 8章17節

南ユダがアッシリア軍に攻められている時のことです。
南ユダは、主により頼むことをしなかったのです。
その代わりに、アラムと北イスラエルの軍事力に期待をして同盟を結ぼうとします。
主は、預言者を通して、南ユダは侵略されて、財宝は全て速やかに奪い取られることを示します。

それは穏やかに湧き出る泉のように、南ユダを潤してくださってきた主に信頼して歩まなかった結果です。
アラムや北イスラエルにより頼んでも、助けられないのです。
侵略も、主が定められたことでした。

しかし、主は南ユダを見捨ててしまったわけではありません。
預言者は、愛の御顔を隠してしまわれた主に、期待します。
主の助けを待ち望むのです。
望みを人の王や他の国の力には置きません。

どこまでも、いつでも主にのみ期待し、望みを置きます。
そして祈ります。
これは正しい姿です。
主が御顔を隠してしまわれたとしても、私たちは、主にだけ望みを置きます。
主の助けを待ち望むのです。

主を待ち望むこと。
主を待ち望む人。
これが正しいのです。
シャローム