「こののろいの誓いのことばを聞いたとき、心の中で自分を祝福し、「私は自分の頑なな心のままに歩んでも大丈夫だ」と言うのなら、潤った者も渇いた者も等しく滅びることになる。」申命記 29章19節 (2017新改訳)

主がユダヤ人を愛して選び、約束の地を与えてそこに住み、祝福を与えてくださる契約を結ばれました。
与えられた契約であり、ユダヤ人、信仰者は、そのことを信じて受け取るだけです。
そしてエジプトで、主がおこなわれた数々の大きな奇蹟と業を見ていない現在の私たちにも、同じ契約が有効となります。
信じる者は、主が約束をしてくださった契約の恵みを確かに受け取るということです。
それは同時に、主のことばに従わなければ滅びることを、自分から選択したことになります。

そのことを示した上で、主は問われます。
あなたは、主を信じて従うのかどうか。

ここには、心の中の、しかし確かな自分の言葉があります。
「私は自分の頑なな心のままに歩んでも大丈夫だ」
主を恐れない言葉、呟き、反逆です。

主の恵みや助けを、象徴的なものとしか受け取っていない人の言葉です。
恵みや祝福、富みや成功も、結局は自分の手によるものと考えているのです。
主に祈り、助けを求めても、それは象徴的にしか受け取っていません。
今日の糧を、本当に主が与えてくださっていること、主の祝福を今朝も受け取っていると、信じていない人の言葉です。

自分の心の頑なままとは、自分中心であり、主に従うことがない心です。
この人は、主を抽象的な神とか、自分に都合の良い神々の一つにしか考えていません。
しかし、聖書の神は、ここ29章にもあるように、激しい怒り憤りを持って私に臨まれる人格のある関係を持ち、具体的な実際の恵みを与えてくださる神です。
確かに存在し、確かに恵みをくださる神。
その神、主から今朝も届いた恵みを受け取り、素直で確かな関係を結んでいることを信じて祈っていきましょう。
シャローム