「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから、赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」 ルカの福音書 7章47節
この時、イエスさまは不思議な表現をされました。
多くを愛したのですからと、イエスさまは語られましたが、この人が愛したから、その結果として赦されると言うのではありません。
愛したことの報酬としての赦しを得たのではありません。
罪深い自分が、本当に赦されていると確信し感謝し散ることが、この人の愛する行動に現れているということです。
イエスさまが指摘するのは、自分たちは正しい人間であり、だから神に祝福されていると、自分を誇る人たちの間違いです。
この人たちは、自分を誇るばかりで隣人を愛することを知らず、愛する行動も取りません。
多くの罪が赦されたと言うのは、あの罪、この罪、過去の罪をと言うことではなく、罪深い自分が丸ごと赦されるということです。
それはまず最初に隣人に対する具体的な罪の前に、神に背いた生き方そのもの、神に対する罪、原罪が赦されるということです。
一番大きな、一番深い罪、この罪が赦されなければ、愛する生き方は始まりません。
始められないのです。
罪人は、神に背くばかりで、神を愛する生き方ができません。
なによりも、神の前に、正しい人は一人としていないのです。
すべての人が、最初に神に赦されなければ行けない身なのです。
自分は、神に赦されなければならない身であることを認めていることが大切です。
認めて、神に赦された人は、神を愛し、そして隣人を愛するように造り変えられていくのです。
赦された喜びと感謝が、私たちの生き方を変え、原動力となっていきます。
多くをと言うよりは、正しく隣人を愛する者として歩みたい。
シャローム