「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。」 ルカの福音書 6章45節

36節には、父なる神があわれみ深いように、わたしたちもあわれみ深いようになりなさいと教えています。
43節には、良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶことはないと教えています。
そして45節のことばがあります。これらはみんな神を信じていると言いながら、神と人を愛する生活をしていない当時の信仰者、特に指導者たちに対する指摘です。
彼らは自分のことを誇りますが、隣人へのあわれみもなく、与えるのではなく奪うような生き方をしていたのです。
律法を守り、正しい者であると自負しますが、その心には愛もなく、神さまへの従順も欠けているのです。

「そんなつもりはなかった」「心にもないことをつい口にしてしまった」ということは本当ではないのです。
あわれみ深い神にあわれみを受けて罪を赦され、愛されていることを知っている人は、その心が神さまの愛とあわれみで満たされていきます。
その結果、その心には悪い物が入り込む余地がなくなっていくのです。
器一杯になっているところには、もう余分なものは入らないように。

私の心に倉があると神は言われるのです。
倉に、なにを蓄えていくのかが問われます。
神を信じ、神を愛する人は、神の愛とあわれみに倣いたいと思うのです。
そして心を明け渡して、空っぽにした倉に神さまの愛を注いでいただくのです。
愛に欠ける私たちですけれど、神さまの愛を注いでいただいていることを覚えて、感謝しつつ繰り返す中で、心の倉に良い物が蓄えられていくのでしょう。
神に愛されている経験とそれを感謝し自覚する中で、良い物が口から出るようになっていくのだと信じます。
今日も、神様に愛されて良い物を受け取っていることを覚えて一日を歩みたい。
シャローム