「あなたがた、私の友よ。あわれんでくれ。私をあわれんでくれ。神の御手が私を打ったからだ。」ヨブ記 19章21節

続く22節では「なぜ、神のように私を追いつめるのか」と、ヨブは友人のビルダデに訴えています。
しかし、ここ21節では、ヨブを追いつめているビルダデのことを「私の友」と、呼んでいます。
そして「あわれんでくれ」「あわれんでくれ」と、2度繰り返しています。
ヨブの心から叫びを繰り返す表現で、強く表しています。

ヨブは自分が神に打たれていることを知っています。
あわれんでくださいと、神様にも訴えたいのです。
本当は、心から叫びたいのです。
しかし今、目の前にいる昔からの友人が、自分を責めるのです。
あわれみの心を示すこともなく、慰めの言葉をかけることもなく。
ただ、繰り返してヨブの罪を責めるのです。

ですからヨブは、彼にもあわれみの心を向けて欲しいと、訴えるのです。
しかしその本当の心は、神様のあわれみを待っています。

ヨブが、ここで神様にあわれみを求める声を上げられたらよかったのです。
でも、それは難しいでしょう。
友人たちにも誰一人、受け入れられず、慰めてもらえない今、ヨブは孤独、孤立してしまったのです。

私たちは、あわれみを求める人に、どのように声を掛け、何をしてあげられるのでしょうか。
あわれみの心を閉ざしてしまって、友人を責めるような信仰者にはなりたくないものです。

シャローム