「それゆえ、神である主はこう言われる。「今、わたしはヤコブを回復させ、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わが聖なる名への、わたしのねたみによる。」エゼキエル書 39章25節 (2017新改訳)
聖書66巻から1つの書を選び、その書を紹介しながら「みことば」を味わっていきます。
66巻をゆっくり読み進めながら、聖書に記された神様の愛について味わっていきます。
今日開いたのは、エゼキエル書です。
預言者であり著者のエゼキエルは、祭司の家系に生れた人であり、南ユダがバビロンに降伏したときに、当時の南ユダの王エホヤキンとともに捕囚の民となって連れて行かれたのです。
エゼキエル書は、大きく3つに分けられます。
1〜24章は、エルサレムの滅亡が中心的なメッセージです。
偽預言者が人々を惑わし、エジプトの援助を頼るけれども、南ユダの滅亡は避けられないのです。
25〜32章は、エルサレムがバビロンに包囲されている期間に語られた預言です。
その内容は、諸外国へのさばきです。
彼らは、南ユダの苦しみの時に助けることがなかった国であり、同時に、彼ら自身の罪の結果として主の審判を受けるのです。
33〜48章は、エルサレムが陥落した後になされたイスラエルの回復の預言です。
主は、ご自身の名のゆえに、ご自身の深いあわれみのゆえに、イスラエルを回復されるのです。
選びました節は、回復のことば、預言です。
主は、悔い改めることのなかった南ユダをさばきます。
国は滅び、人々は捕囚となって、長い長い期間を過ごすことになります。
すべては自分の蒔いた罪の種の結果を刈り取ったものです。
しかし主は、彼らをあわれみ回復を約束してくださるのです。
イスラエルを、祝福する、子孫を繁栄させると約束をされたご自身の名前の故に、回復を備えてくださるのです。
もちろん、罪へのさばき、徹底的な悔い改めが求められます。
それでも主は、見捨てて一人残らず滅ぼすことを望まれないのです。
ここに「わたしのねたみによる。」とあります。
「熱心による」と翻訳する聖書もあります。
ねたむとは、この場合は他者の物を嫉むというような悪い意味では使われていません。
他者が並ぶことができないほどに激しくイスラエルを、弱い者をあわれむ主ご自身の名の故に、そのご性質によって、捨て置くことができないということです。
ですから、回復の道を与えるのです。
最初から最後まで、主があわれみ深い方でなければ、私たちが罪を赦されて、神の子どもと呼ばれ祝福されることはないのです。
ねたむほどに、熱心で、誰よりも深く私をあわれみ愛してくださる主が、私に声を掛けてくださっているのです。
罪人をもあわれみ、悔い改めて生きるようになることを、主は熱く、忍耐をもって今も、待っていてくださる。私もその一人。
シャローム