「レビ部族にはモーセは相続地を与えなかった。主が彼らに約束されたとおり、イスラエルの神、主が彼らへのゆずりである。」ヨシュア記 13章33節 (2017新改訳)

14節にも、ほぼ同じ表現があります。
14節は「主への食物のささげ物こそ」と、説明が加えられています。
これは実際に、献げられたいけにえの動物やパンをレビ部族の祭司だけが食べることを含めて説明しているのでしょう。
大切なことはこのレビ部族へのことばが、ここ13章でヨシュアに残っている占領地があることを示してそこを各部族の相続地にすることを示す中で、繰り返されていると言うことです。
主が、主の敵対する民を追い払われて、約束の地を与えてくださり、その相続地(ゆずり)を示されます。
各部族にふさわしく、足りないこともなく与えられる中で、レビ部族にはゆずり(相続地)がないことが強調されるのです。
いいえ。主がレビ部族のゆずりだと、強調されるのです。

広い土地、豊かな土地を所有地にすることが、幸いや価値があることではなく。
主を信じて歩むことこそが、私たちの宝であり豊かさであり幸いであることを、示すのです。
それを直接、毎日の奉仕と歩みの中で祭司職であるレビ部族が、皆の見本となっているのです。

食物も、他の全ての物も主が与えてくださる恵み、祝福です。
それを目に見える形で忘れないように生きるのがレビ部族なのです。

私たちは今、主の日に礼拝を献げることができることが、一番のゆずりである。宝であることを示していると言えるのです。
ゆずり、相続した宝を忘れないようにして七日間を歩みたい。
シャローム