「愚かな者たち、外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。」 ルカの福音書 11章40節

パリサイ人がイエス様を自分の家に招きます。
その時、イエスさまが食事の前にきよめの洗いをしないことに驚くのです。
その驚くパリサイ人にイエスさまが語られたのです。

まず、イエスさまはパリサイ人の心を見抜いています。
彼がイエスさまを招いたのは、既に有名となっていたイエスさまを自宅に招くことを自慢する思いがあったのです。
心からイエスさまを信頼し、また、教えを受けたい、或いは労いたいとの思いではないのです。

そしてパリサイ人の彼は、きよめの洗いを初めとした数々の細かな律法を守ることを大切にしています。
それが彼の信仰なのです。
しかし、イエスさまはそれは形ばかりの信仰であると指摘するのです。
外側、形ばかりを気にする信仰を、神さまは喜ばれないことを指摘するのです。
そのことを造り主である神ということを示して教えるのです。
彼らの信仰が形ばかりの実態のない信仰であっても、彼らは神が人を造ったことは知っています。
神が人を造ったのならば、人の姿も心とたましいも神が造られたのです。
その神の前に心の伴わない信仰は意味がないのです。

形を整えることよりも、心の全てを注ぎ出して、罪をきよめていただくことを求めるべきです。
神の前におこなうべき行動は、形を整えることではなく、神の愛に倣って外に向って、隣人に向って愛を実践することです。

心の伴わない信仰は、どれほど律法を守っていても意味がないのです。
内側が、外側を定めていきます。心が行動を決めていきます。
神が愛してくださったので、イエスさまを私たちに与えてくださったのですから。
シャローム