「しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」テモテへの手紙 第1 1章16節

テモテの手紙を読みます。
パウロが、血縁の実子ではないのに「わが子」と呼んで愛するテモテへと書いた手紙です。
テモテがいた教会には、この時、人々を惑わすような話しを、上手に語る者たちがいて、教会の人々を混乱させていたようです。
パウロはテモテが正しい信仰生活を送り、テモテが教会の人々を導けるようにと、手紙を書いたのです。

一つ前の15節で、パウロは自分のことを「罪人のかしら」と、呼びました。
誰よりも罪深く、そしてキリスト者を激しく迫害したこともある自分が、救われていることが、どんなにすごいことなのか、それがどれほど大きな神の愛と恵み、寛容な心であるのかを示したいのです。
罪人のかしら、罪人の中の罪人、代表のような自分が救われていることが、神さまの愛の大きさと、確かさを明らかにして、パウロの後に続く人たちが、福音を受け取り、喜ぶことができることを示すのです。

パウロは、迫害者であった自分が、罰を与えられて滅びるのではなく。
見出されて、赦され、救われていることが、神さまの愛の証しであると、示すのです。
自分の犯した罪を明確に認めることができた人が、イエス様を信じて救われた時、その救いと喜びは誰よりも確かなものとなっているのです。
そこにある主のあわれみを疑うことなど無く、確信して喜びの信仰生活を送ります。その人は変わった話、間違った教えに惑わされることもないのです。
罪人のかしらは、恵みのかしらに・・・

シャローム