「また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。」使徒の働き 17章25節
ひとが立派な神殿を作ったからといって、そこに真の神が住まれる訳ではありません。
神がエルサレムの宮を住まいとしてくださっていたのは、神がイスラエルの民を愛していたからです。
また、神、主に仕えるのは、神様に足りないこと、足りないものを人が補うためではありません。
献げものは神のためではなく、献げることを通して神と交わる喜びを人が知るためです。人が自分のために献げるのです。
仕えるのは、仕えることを通して喜びを経験し、神と真の交わりがあることを知るためです。
ここでいのちと息と万物と、三つを並べて人が神から与えられていることが教えられています。
いのちは、地上の人生の命と神とともに生きる永遠のいのちのことです。
息は、神のかたちに似せて造られた人が、神と交流を持つことができること、たましいがあることを示します。
万物は、文字通りこの世界のすべてのものが神によって造られて、人がそれを神様に委ねられて管理する恵みに預かっていることを教えます。
神に仕え、神とともに生きる時に私たちは真の喜びを味わいます。
神様に足りないこと、足りないものはありません。
しかし、かつての私たちには足りないものがありました。
神様を信じて生きることでした。
神様との関係を失ってしまったら、空しく滅ぶだけです。
シャローム