「実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたあのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。」 レビ記 17章11節
人々が食用のためであっても牛や子羊かやぎを屠るならば、その時は必ず食べる前に主の幕屋に持って来て、祭壇に血を注ぎ礼拝をしなければならないことが命じられます。
それをしない人は、民の間から断ち切られます。罪ある者とされた上で断ち切られるのです。
その理由を主は、血にいのちがあり、血は神との間の宥めのためのものだからだと示します。
当時の周辺国や他の神々を崇める人たちは、宗教行為として動物の血を飲んだりしていたのです。
主はイスラエルの民がその偶像から完全に離れるように命じたという意味もあります。
同時にいのちを持って神と和解しなければならないことを教え、そのいのちは血にあるのだと教えます。
いのちのため、宥めのためと、教えられた血について、私たちが聞き従うことが大切です。
ですからイエス様も十字架で死ぬ時も血が流されることを強く示したのです。ただひと言だけ十字架で死ぬとは表現しなかったのです。
私のために流された血は、牛や子羊かやぎなどではなく、御子イエス様の尊い血であることを今朝もう一度覚えたい。
いけにえの血、十字架で流されたイエス様の血を見たい。
シャローム