「隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。」申命記 23章24節 (2017新改訳)

興味深い律法です。つづく25節には、同じような定めが麦畑にも適用されています。

これは空腹時における律法です。
入ったときとは、何かの用事で移動途中に、空腹となり、そのとき、ぶどう畑に通りかかったことを指します。
隣人の所有するぶどう畑を目的地として、出かける訳ではありません。(現代の、果樹園での果物狩りではないのです)

このカナンの地は、ユダヤ人に対して、主が預けて自由に用いることを許してくださっている土地であり、そこに実るぶどうなのです。
主が祝福して与えてくださる豊かな実りを、受け取っているという前提があります。
それなので、人々はお互いに助け合い、支えて、あわれみをかけるのです。
空腹時には、ぶどうを与えてその人の渇きを潤してあげるのです。

これはしかし、私たちには、なかなか挑戦的な律法かもしれません。
自分のぶどう畑に行ったとき、隣人が通りすがりにぶどうの実を摘み、口にしているのを見たときに、この律法の心を思いだし、快く与えることができるのか。
なかなか心が問われます。
しかし、この地で主から豊かに実った物を最初から受け取っている事実があります。
それなので隣人にも与えるのです。

しかし、ぶどう畑の主人が、労苦してぶどうを育てて実りを得ているのは、確かなことです。
ですから、実っているぶどうを、緊急時に空腹を満たす目的の他に、自分のものとしてはいけないのです。
カゴに入れたならば、それは盗むことになり、十戒を破る行為になります。別の問題です。

主のあわれみと恵みに、私たちも倣うのです。
隣人に与える人は、少なくなるのではなく、主によって再び祝福されて増やされることでしょう。
ここに「思う存分」と、命じられていることに心が留まります。
わずかな物を与えて助け、あわれみをかけるのではないのです。
受ける人(ここでは実を摘む人)が、十分に満たされるように、恵みを施すのです。
惜しむ人は失い。与える人はさらに豊かになる。
それが主の恵みとあわれみです。
それに倣うのです。
シャローム