「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。」コリント人への手紙 第1 11章29節
11章の前半16節までの箇所の内容については、現代において様々な議論がされることがあるでしょう。
パウロが女性に対する差別意識があると言う指摘、批判を受けることも多いのです。
しかし、今朝はそれに対しては一言だけ記すことにします。
パウロの他の手紙などの内容と合わせると、パウロは女性と女性の信仰者に対して、敬意を払っており、教会において他の誰よりも豊かに信頼して、教会の働きに用いた使徒です。
ここで記されることは、この時代の中、特定の地域の中での習慣の中で読まれるべきです。
今朝、心に留まったのは聖餐式と教会での交わりの食事に関する箇所です。
当時のコリントの教会では、礼拝に集まった時、パンとぶどう酒の聖餐式とともに、食事の愛餐が行われていました。
しかし、その時、豊かな人と貧しい人の中で、配慮に欠ける食事の仕方が行われていたので、パウロは厳しい言葉を語るのです。
愛を持って食事ができ名ならば止めるべきであり、それはそのまま聖餐式をも間違った形にしてしまうという叱責です。
だから、よく自分自身を吟味しなさい、との指摘です。
今、私たちは教会での聖餐式をしばらく止めて、食やお茶の交わりを控えています。
それは広がった新型コロナウイルス感染の危険を避けるためです。
現時点でこの行動は正しいと考えています。
課題となるのは、再開の時期と方法です。
愛餐の食事が教会でできないのはやむを得ないとしても、聖餐式を一年もこのまま控えるのは良いとは思えません。
そこで、みからだをわきまえる、自分自身を吟味すると言うことが、改めて問われていると考えます。
迫害にあって地下に隠れた信仰者はどうしたでしょうか?
パンとぶどう者が、自由に用意できない状況下の信仰者はどうしたでしょうか?
色々と想像します。
答えは簡単ではありません。
大切な聖餐式です。大切なのです。
一年以内には、何かの形を用意して執り行いたいと考えます。
それまでの期間、毎週の礼拝に中で、私たちは「みからだをわきまえ」「自分自身を吟味し」聖餐について考え続け、求め続けることが、みからだをわきまえる大切な一歩だと思います。
主イエスは、この時代の状況下に生きる私のために、十字架で裂かれ血を流してくださったのです。
主イエスの愛を思い続けたいのです。
次に受ける聖餐式は最高のものになると信じます。
シャローム