「その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。」 レビ記 1章4節
今朝から「レビ記」を読みます。
イスラエルの民が、主だけを信じて主のことばに従い生きる時に、おこなうべき礼拝、いけにえのささげ方について、命じています。
レビ人が、祭司職としてそれを司ることから、本書はレビ記と呼ばれるようになりました。
荒野の旅の中から始まったいけにえの規定ですが、人の思いでささげても良いしささげなくても良いと言うことではありません。
いけにえを通して、主を礼拝し主に近づくことが必ず求められます。
主を信じるならばいけにえをささげなければなりません。
現代の私たちは動物のいけにえはささげません。
イエス様が究極のいけにえとなってご自分をささげてくださったからです。
イエス様を信じて、献身すること、礼拝することがここでのいけにえと礼拝と同じです。
いけにえをささげるのは、単に主に贈り物をするのではありません。
ここで頭に手を置いています。それはささげる本人といけにえ、即ちこの後で屠られる動物が一体であることを示すものです。
自分の命の代わりをいけにえの動物が果たすのです。
いけにえをささげること、今、礼拝をささげることは、私の命を毎回ささげる真剣なものです。
命がけでと言う表現がありますが、まさに礼拝は命をささげてするのです。今も荒野の旅路も同じなのです。
シャローム