「イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」」ヨハネの福音書 20章29節
現代に生きる私たちは「見ないで信じる人」の一人です。
ここ20章は、1節、5節、6節、8節、12節、14節、20節に「見た」と言う表現が繰り返されます。
墓の石が取りのけられているのを見たマリアが見たことに始まり、幾度も見たことが記されます。
マリアは、14節ではイエス様を見たのに、それがイエス様であることが分からず、よみがえられたと信じることもできませんでした。
しかし、16節で「マリア」と声を掛けられると一転して信じたのです。
最初の日曜日に、その場に居なかったトマスは、8日後の日曜日にイエス様を見た時に信じました。
そして、イエス様は、トマスにこのように語られたのです。
30節では、イエス様が福音書に記されていない幾つもの奇跡を行ったことが示されます。
奇跡を見て、救い主を信じるのではないのです。
トマスは、確かに8日後にイエス様を見ました。
けれどもイエス様は、ご自分の姿を現して、何か特別な奇跡を行われて、見せたのではないのです。
「平安があるように」と、トマスに声を掛けられたのです。
私たちは、見るのではなく、聞いて信じるのです。信じます。
信じるのに必要なことばは、すべて聖書に記されています。
私は聞くことができます。
そして、素直に聞く時に、私にはイエス様から届く平安が与えられています。
それはこの地上の他のすべての幸い喜びに勝る幸いです。
シャローム