「だれでも、自分の利益を求めず、他の人の利益を求めなさい。」コリント人への手紙 第1 10章24節

10章は、不思議な書き方がされている章だと思います。
1節から13節は、出エジプトの旅の途上でイスラエル人が犯した罪について語ります。12,13節は結論部分です。
しかし、それが語られた後に続くのは、偶像の神々に献げられた肉に関する注意です。
連続した教えには聞こえなかったのです。

一つの視点としては、神を信じて歩む日々に起きる試練に対して、どう生きるのかを問い掛けていると言うことです。
荒野の旅の途上にも、信仰生活の日々にも、試練や誘惑はあります。
その時、どのように対応するのか、試練に立ち向かって勝利するのかが問われます。
出エジプトの旅では、多くの人は、誘惑によって主のことばに従うのではなく、自分の思うままに行動して滅んでしまいました。

この時、コリントの教会に周りには偶像の神の神殿があり、そこに献げられた品もの、肉が町の人々の食卓に上ることもあったのです。
パウロは、その肉を食べたしまったからといって、その結果、信仰者が汚れたりすることはないと教えます。
しかしだからと言って、その肉を自由に食べてもかまわないと言うことではないと教えます。
食べるなではなく、キリスト者に与えられた真の自由によって、判断をして試練に打ち勝ち、益をもたらすことを勧めるのです。
自分の利益ではなく、他の人の利益を求めるのです。

6章、8章とパウロは「キリスト者の自由」と「キリスト者の愛と徳」について語ってきました。
23節では、すべてのことが許されていると、キリスト者の自由について触れています。
食べるのも自由ですが、食べた結果については、キリスト者としての責任が問われます。
食べるのか食べないのかは、愛の問題でもあるのです。

食べる自由と言う愛が、その結果で、他の人の徳を立てるかどうかという利益に繋がっています。
キリストを信じた人は、偶像の神殿から持ってきた肉を食べたからと言って、その身体や心が汚されることはありません。
しかし、そのキリスト者に愛が備わっているのか、愛を実践する人なのかどうかは問われます。
そしてそのキリスト者の信仰の実が結ばれていきます。
キリストの栄光を現し、信仰の証しをして、他の人をキリストを信じる人へと招くのは、強い信仰や自由な信仰ではなく、愛を実践する信仰なのです。
それが自分の利益を求めないことだと思います。
シャローム