「それで、私はすぐにあなたのところに人を送ったのです。ようこそおいでくださいました。今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。」使徒の働き 10章33節
カイサリアに住む外国人のコルネリウスに御使いが現われて、ペテロを招くように呼びかけます。
同じ頃、ペテロにも主が働きかけます。
モーセの律法では汚れた動物として食べることを禁じられている動物を屠って食べるようにと、主が語るのです。
それは主がきよめるのであって、人が他の人をきよいかきよくないかを決めることはできず、すべての人を隣人、主を求める人として受け入れることを命じることばでした。
こうしてそれぞれに主が働きかけ、呼びかけて二人は出会います。
ここ33節では、コルネリウスがペテロを招いた理由を告白してます。
そしてこの告白とコルネリウスの行動こそが、彼を救いへと導き入れるのです。
「それで」とは、主が御使いを通してペテロを招くように語ったことを言っています。
それは、主がコルネリウスをご自分のところへと招いているという意味です。
彼は、この招きに答えました。
「ようこそおいでくださいました」とは、初対面のペテロを受け入れて、すでに隣人として語っていることばです。
「すべてのことを伺おうとして」とは、聞きたい、聞きますという行動を明確に告白しています。
そこに迷いはありません。聞きたいのです。
「神の御前に出ております」とは、聞く姿勢、聞く時の姿を示しています。
私たちは、ペテロから人の言葉を聞くのではありません。
私たちは、聖書の本文から文字を読み取るのではありません。
私たちは、神の御前に出て、神様の語り掛けを聞くのです。
私たちは、聞きたいのです。
続く35節では「神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れらます」と教えます。
神を恐れて正義を行うとは、完璧に正しいことを行う人ではなく、それはコルネリウスのように行動する人のことです。
神の招きに応じて、語ってくれる人を受け入れて隣人となり、聞こうとする人のことです。
その人は、人の前ではなく神の御前に出て聞こうとします。
その人には、聖霊が下り、救いへと入れられるのです。
私たちもまた、コルネリウスのような素直で積極的な行動をする人となっていきましょう。
シャローム