「ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。」コリント人への手紙 第1 8章13節
「愛の章」である13章に向かって、パウロはイエス・キリストを信じる者、キリスト者の愛の実践について語ります。
ここでは「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」という生き方、日々の実践について語ります。
食物、ここでは具体的に肉ですが、肉を食べるのか、食べないのかについて示します。
コリントの町には、アフロディトの神殿などがあり、そこに捧げられた肉が食卓に並べられることがあったようです。
その肉を、偶像の神々に捧げられた(汚れた)肉と、考えて食べることを避けて、自分の身をきよく守るのか。
それとも、もともと偶像の神など存在しないのだから、その肉は捧げられたからと言って、汚れたりするものではないと、考えて気にしないで食べるのか。
しかし、まだ教会に集い始めて真もない人など信仰が若い人、弱い人にとっては、同じ教会の人が食べるのか、食べないのかは大いに気になります。
パウロは、ここで自分が気にしないからと言って食べることで他の人を惑わしたりつまずかせるならば、自分は、食べないことを選ぶと語ります。
それは知識による決断ではなく、愛の決断だと、言うのです。
イエス様が、罪人であり、弱く、イエス様を否定して拒んでいたような私たちのために、命を捨てて救ってくださったという愛を示してくださったのです。
ですからこのイエス様の愛の実践に倣うのです。
食べるか食べないかではなく、愛を実践するのかしないのかなのです。
私たちの周りにも偶像に捧げられた肉が見られるように思います。
その見たものに対する応答が求められているのだと思います。
積極的に行動するのが愛の実践であり、イエス様の愛への応答です。
同時にそれは自分を愛するように隣人を愛することでもあるのです。
シャローム