「しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。」コリント人への手紙 第1 6章17節
パウロは、コリントの教会の人の中に、キリスト者の自由を考え違いをして、放縦な生活、好き勝手に歩む人たちがいたので、忠告を与えるのです。
当時のコリントの町には、アフロディトを祭る立派な神殿がありました。そこには神殿の巫女と呼ばれ遊(娼婦)や男娼がいたのです。
そして神殿で交わるというのは、この娼婦との交わりを指しています。
コリントの多くの人は、それを当たり前のようにおこなっっていたのです。
パウロはそのような神殿で遊女と交わりを持つことは、自分の身を汚すことになるのだと、指摘します。
それはごく普通のことではなく、主を悲しませることです。
それに対して、キリスト・イエスを信じる人は、その人のからだが主の宮になっています。
そして主イエスを信じて、主との深く、確かな交流を持つ人は、罪からきよめられているだけでは無く、主と一つの霊になっているのだと、教えます。
遊女と交わるなどの淫らな行いをする人は、自分で自分の身を汚し、罪を犯すことになると教えて、罪から離れるように命じるのです。
私たちは、礼拝、祈りと賛美、聖書のことばを聞くことで、主と深く交わります。
そして私たちは罪から遠く離れ、主と一つとなっていくのです。
主イエスを信じた人は、主によって買い取られた人です。
その買い取られた自分の身を罪のために用いることなく、主の栄光を現すために用いていくことが勧められています。
立派な建造物の神殿では無く主に買い取られたきよい宮としての自分の身を、主のために用いたいものです。
朝ごとのみことばを開く時間も、大切な主との交流の時間です。
シャローム