「パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある、上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。」エレミヤ書 20章2節 (2017新改訳)
聖書66巻から1つの書を選び、その書を紹介しながら「みことば」を味わっていきます。
66巻をゆっくり読み進めながら、聖書に記された神様の愛について味わっていきます。
今日開いたのは、エレミヤ書です。
宗教改革をおこなったヨシヤ王の時代に預言者として活動を開始したのがエレミヤです。
本書には、預言書には珍しく、エレミヤ自身のことも記されています。
彼は、アナトテにいた祭司の一人でした。
そしてその召命のことも細かく記されています。
本書は、彼の言葉を、初期バルクが書き留めたものです。
とても長い預言書です。
前半と後半は、すこし内容が変わります。
エレミヤは、ヨシヤ王の後、エホアハズ、エホヤキム、ゼデキヤの時代に渡って、預言者として活動をしました。
しかし、宗教改革をおこなったヨシヤと違い、エホヤキムの時代になると、彼の活動は困難を極めます。
南ユダの崩壊とバビロンによる捕囚と言う、主のことばをエレミヤが、語っても人々は聞かないのです。
そして主のことばではない、ことばを預言の言葉として、自分たちに都合の良いことばかりを語る者が、受け入れられていくのです。
20章からは、エレミヤの苦難が具体的に始まります。
ここでは、エレミヤが打たれて、足かせにつながれていくことが記されます。
この後も、ずっとエレミヤは苦しめられるのです。
その理由は何か?
人々が自分の思いのままに歩み、頑なになって主のことばを聞こうとしないからです。
主ご自身が、19章の最後にも、主のことばに聞き従おうとしないからと、指摘しています。
人々が聞かなくても、主のことばを語り続け、伝え続けることが信仰者には求められます。
結果が、思い通りにはでないと分かっていたとしても、語り続けることが、主への愛の応答となり、主のことばに聞きしたがっていることになります。
厳しいさばきのことばも、主は、人々を憎むから語られるのではなく、愛してくださって、滅びからいのちへと立ち帰るようにと、望んでくださっているのです。
しかし、主のことばを語ったり、主を証しすると、迫害に遭ったり、苦しめられることがあります。
打たれ、つながれて、行動が制限されたとしても、罪が赦されて主の愛を知った人は自由です。
身体は苦しめつなげても、心とたましいはつなぐことはできないのです。
主の御手によって何重にも守られています。
そのことを覚えて、エレミヤの何十分の一でも、大胆に継続して、主のことばを語り続け、主の愛を伝えたい。
シャローム