「そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」サムエル記 第1 8章20節 (2017新改訳)

イスラエルの民がサムエルに求めたのは、イスラエルにも王が立てられることでした。
他の周辺国と同じように、王が欲しいと訴えたのです。
主は、それはサムエルを拒んだのではなく、主を拒んだことなのだと、サムエルに語ります。
その上で、主は、王を与えるように命じます。

この20節の短い言葉には、幾つもの深い意味と問題が潜んでいます。

「私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり」とは、何でしょう?
唯一人の神、主に愛されている「選民」のはずが、他の国の民が羨ましいと言うのです。

「王が私たちをさばき」とは?
主のことばに従うのは嫌なのです。
王ならば、自分たちの要望を聞き入れてくれるとでも思うのでしょうか。
そこにもまた、周辺国への間違った憧れがあります。

「私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」
一人一人が、信仰に生きて、罪と戦い、信仰の戦いを戦い抜くのが嫌なのです。
王が、代わりとなって戦い、勝利を与えてくれると幻想を抱いています。
しかし、身代わりの勝利は、イエス様の十字架の死以外にはありません。

他の人と比べても、祝福を得ることも、満たされることもありません。
主のことばに従い抜くと言う信仰の戦いに自分で立たなければ、誰が王になっても勝利を得ることはありません。

主に愛されているのに、他の人と比較して、他の何かに恵みを求めても満たされることはないのです。
求めるのは主との深い関係。
主のことばに従い抜く戦いを、戦う決断と実践です。
シャローム