「これらの一つについて、責めを覚える場合には、自分が陥っていた罪を告白し、」 レビ記 5章5節

4節では、軽々しく口にしてしまった結果の罪についても示されます。
SNSが広がっている現代、このことはモーセの時代以上に私たちに迫っており、罪の誘惑は常に私の側にあります。
私たちは、主の愛の律法に照して、常に罪に対して敏感であるべきだと、教えられます。

4章では、後になって、主観的、客観的に罪を意識したならば、悔い改めていけにえをささげて主を礼拝していくことを教えられました。
そして5章も、罪を意識したならば、律法に照しておこなうべきことが示されます。

しかし、ここで強く命じられているのは「罪を告白し」です。
確かに贖いとして、罪の宥めのささげ物を持って、祭司の所に行きます。
主の前にいけにえをささげます。
律法に従います。

それでも大切なことは、責めを覚えたならば、客観的な指摘を受ける、受けないに関係なく、罪を告白することが大切なのです。
いけにえを手にして、儀式を行う前に、罪を自ら告白することが一番最初にするべきことであり、一番大切なことです。
たとえそれが小さな軽口を開いただけの罪であったとしても、そのことを弁明するよりも、自ら罪を告白する人が主に赦されて、罪を行う以前よりも祝福されるのです。
主の赦しと祝福はなくならない。

シャローム