「民衆の一人が、主がしてはならないと命じたことの一つでも行って、気づかずに罪に陥ってしまったが、後になって責めを覚える場合、」 レビ記 4章27節
13節にもある「後になって責めを覚える場合」という表現が、ここ27節と、この後の5章2節以降にも何度も登場します。
以前は「後で咎を覚える場合」と翻訳されていました。
ここでは、後で責め、咎を覚えたときには、贖いではなくきよめのささげ物をするように命じられています。
責めを覚えるとは、二つの面があると考えます。
1つは、自分自身で罪を意識すること。
もう一つは、罪を行ったことを誰かに指摘されて気がつくことです。
責めを覚えるとは、主観的な面と客観的な面の両方から罪を意識し、なによりも認めるということです。
その時は、ただちに主の前に進み出て礼拝をしていくのです。
しかもこの「後になって責めを覚える場合」と言う表現は、13節では、すべての人に向けて語られた後で、27節では、一人がと、民衆の中の一人に目を向けて語ります。
私たち一人一人が、罪に敏感となり、また、皆も罪に敏感な群れとなって、主の前に進むことが教えられているのです。
一人の罪も、群れの罪も敏感に受け止めて、それを赦してくださるあわれみ深い主への信仰と献身を覚えることができることばです。
罪を悔い改めるのには、遅過ぎるということはないのでしょう。だからこそ、罪に敏感になって、主の前にイエス様に倣ってきよくなりたいと求めることが大切なのだとも思う朝です。
シャローム