「彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。」 マルコの福音書 16章11節

16章の続きです。

マルコの福音書の写本には、この10〜20節を欠く写本があります。新改訳聖書など、現在多くの聖書はこの部分を加えた形で翻訳して用いています。

彼らとはイエスさまの弟子たちのことです。
マグダラのマリアが、お墓でよみがえられたイエスさまにお会いしたことを伝えたのですが、弟子たちは信じなかったのです。
マリアは、うわさ話を伝えたわけではありません。
今朝、お墓で、会ったと、証言したのです。

しかし、その証言を信じなかったと言うことです。
13節には、ルカの福音書24章13節以降に記されるエマオの村へ行く、二人の弟子たちもまた、イエスさまにお会いしたこと、語り合った出来事のことを証言したと、簡潔に記されています。
しかし「その話しの信じなかった」のです。

ここでマルコが強調するのは「信じなかった」と、いうことです。
大切な証言を聞きながら、信じなかったと言う事実です。
他の誰よりも、これまで一番、イエスさまの身近にいた弟子たちでさえ、イエスさまがよみがえられた、という証言は簡単には信じることができなかったのです。

あの弟子たちも、最初は信じなかった。
けれども、一度信じたなら、その後は、殉教するまで信じ切った。
それはペテロたちが、よみがえられたイエスさまと、出会ったからです。
私たちは、マリアのようにはよみがえられたイエスさまとお会いすることはありません。
しかし、聖書を通してイエスさまは「ご自分を現され」るのです。
私たちもまた、よみがえられたイエスさまとお会いして、信じる一人です。
そして、お会いしたと証言する一人に変わります。

私たちが聖書を読み、信じるのは、過去の偉人のお話の内容ではありません。
今も生きているイエスさまです。
私の罪を赦し、神の子どもにするために、十字架で死に、三日目によみがえられたイエスさまです。
あなたに、イエスさまはよみがえられた姿を現されたのだと言うことを、今朝もう一度味わいます。
そして、私は、そのイエスさまを信じたということも味わいます。
確信を深め、明確に証言をします。喜びを持って証しします。
今朝もまた、イエスさまから届く恵みを味わいます。
シャローム