「しかし、悪者どもの目は衰え果て、彼らは逃れ場を失う。彼らの望みは、最後の一息にすぎない。」ヨブ記 11章20節 (2017新改訳)
続いて三人目の友人、ツォファルが語ります。
彼には二つの特徴があります。
一つは、11節、14節に見られます。
11節で、主に祈り、祈りの手を伸ばすことを勧めます。
悔い改めの祈りの勧めでもあります。
次いで14節で、具体的に罪から離れることを勧めます。
要するに、霊に肉ともに、主の前に悔い改めるように迫っているのです。
そうすれば、18節で語るように、主の赦しが与えられるかも知れないと言うのです。
主は赦しを与えてくださる方だと言う、ツォファルの理解は正しいのです。
でも、自分に理解できる範囲で、神のすべてを理解しようとしている正しさです。
神の義が分かったとしても、神の愛が分かっていません。
さばく神を見出しても、あわれみ深い神を見出せません。
彼の主張の最後は、この20節のことば、結びのことばです。
ヨブはさばかれて当然のことをしたのだと、決めつけています。
ヨブが自分の罪を認めないのだと、決めつけています。
そう断罪して終わっています。
ここ11章には、ヨブに対する友人としてのあわれみも、愛も始めから終わりまでありません。
だから、望みがないのだと、断じて終わるのです。
しかし、私たちの主は、そのような方ではありません。
どこまでも深く、高く、広いあわれみの神です。
そのことをもう一度覚えたい朝です。
シャローム